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3・11東日本大震災をふりかえって

 改めて平成二十三年3・11の東日本大震災の犠牲者・被災者に衷心からお見舞いを申し上げたい。大震災の原因となった大津波は過去にも繰り返された天災だが、それに伴って起こった福島原発の爆発事故は未だかつてない人災であった。その後2年ほどを経て自著の中に綴った当時の心境を、5年目にあたる今改めて要点のコピーとして発信することを了解ねがいたい。

 じつは大震災の当日、東日本を中心として広範囲に大災害が発生した時刻に私は、大阪市内の公立劇場のホールでミュージカルを観ていた。そのタイトルは「どうしてジャンケンできないの?ー大阪空襲ものがたり」で、政府を相手にした大阪空襲訴訟を応援するためのイベントであった。
 このミュージカルの主人公は、孫娘に「どうしてジャンケンできないの?」と聞かれてショックを受けるのだが、その原因は子供のころ大阪で大空襲を受け、焼夷弾が落ちて燃えさかる防空壕の中から脱出したとき両手に火傷を負い、指が曲がったままになったからであった。戦争のために障害者になったことを再認識した高齢者が、反戦の運動に目覚めていく実話をドラマ化した舞台劇であった。
 舞台の途中で、「只今、放送によれば地震が発生した模様ですが、このまま上演を続けます」とアナウンスがあった。何も知らずに帰ってテレビを観てびっくり、M9.0の大地震と大津波が東北地方沿岸を中心に襲来した映像が繰り返し放映された。
 翌朝になって、さらに沿岸の街々は大津波の被害で全滅に近いことが分かってきた。危険きわまりない原子力発電所の爆発も伝えられた。最初に大津波にさらわれて瓦礫の山となった被災地の映像を目にしたとき、一瞬昭和20年に東京大空襲を受けた焼け跡に似ていることに愕然とした。空襲は焼夷弾という火の、大津波は水の災害である。その違いはあれ、結果は建物も人命も、一切が失われる点では同じであった。
 3・11大震災の1日前の3月10日には東京大空襲があり、葛飾区一帯が焼け野原となり、10万人もの住民が生きながら焼き殺された悲劇の史実を私は知っていた。

被災地からのメール
 遠く離れた奈良県に住みながら、被災地の実情を知ったのは、津波に襲われた直後にSOSのメールが飛び込んできたからだ。宮城県の高橋伸実さんを発信元とする拡散メールには、次のような文字が踊っていた。
〈ここ3日間行かせてもらってる津波の被害に遭われた石巻地区は、本当にひどい状況でした。
建物や車はすべて流され、ヘドロと油の匂いが町中に充満しています。
避難所は小学校の教室にぎゅうぎゅうな上にドロだらけ。
食事は一個のおにぎりを5人で分け合い、一杯の雑炊も5人で分け合って食べ、箸は一家庭に割り箸が一膳だけで、それを使い回し、しかも何日も使っています。
ほとんどの方々が11日から同じ服で、着替えや靴もなく、屋内スリッパを靴の代わりにして、外のドロの上を歩いている状態です。
また、室内でも氷がはる寒さの中、敷き布団はダンボール1枚、掛け布団は毛布1枚で過ごしています。・・・〉
 私はとりあえずメールを知人友人あてに拡散すると同時に、メールの末尾に記されていた住所・氏名あてに、思いつく限りの物品を箱に詰めて急送することにした。

東京大空襲の連想
 当時から66年前の3月10日、東京大空襲の夜に繰り広げられた地獄の様相はどうだったのか。
 その運命の日、早朝5時7分から約2時間30分にわたって、マリアナ基地から出撃した300機を超えるB29爆撃機が、隅田川沿いの人口密集した下町に焼夷弾32万7千発(1800トン)を集中投下し、東京の1/4に当たる40平方キロが焼失した。一夜の間に26万戸が焼失し、死者は10万人に上ったという。当時の深川区だけで3万人の死者が出ている。

 安全なはずの防空壕の中で全員が焼死した家族たち、国民学校に逃れたものの鉄筋の校舎の窓から火が吹き出す勢いで火の海に包まれた人びと、言問橋の上にも河川敷にも積み重なった累々たる死体の山。………

 その日投下されたM69型の小型焼夷弾は、燃焼実験を繰り返し、最も効果的に日本の木造家屋を焼失させるために製造された。焼夷弾にはゼリー状ガソリンを38本も詰めこみ、空中で分解して着弾してから数秒後に屋内で炸裂するように設計されていた。

 一般市民を大量殺戮することによって、軍需工場の労働力に打撃を与え、国民の戦意を喪失させることが作戦の目的であった。

 作戦を指揮したルメイ司令官は、「多くの女性・子供が犠牲になるのは分かっていたが、戦争に勝つためには必要だった」と語っている。(以上、NHKスペシャルによるデータ)
 翌日の大本営発表では、 襲来した120機(実数の1/3)のB29のうち15機を撃墜し、朝の8時には消火したとして、一夜にして焼死した10万人の犠牲者には何ひとつ触れなかった。
 その後も市民の犠牲者に対して、何一つ国からの補償はなく放置されたままであった。実状はニュースでも報道されなかったから、現地から離れている国民が事実を知ることさえできなかった。
 そうした面では、67年前(原文のまま)と今では社会は大きく進歩していることは間違いない。このたびの東日本大震災では、国内はもとより外国からも、ボランティアや義援金など救援の動きが一気に被災地に集中した。

戦争を語りつぐ証言
 平成24年2月で80歳を迎えた私は、8年前の平成16年、つまり戦後60年目の節目となる平成17年から1年前の夏、ボランティア・グループ「戦争を語りつぐプロジェクト」を立ち上げた。その動機は、戦争体験が風化してしまうことを恐れるとともに、幼年期から戦争の連続であった私自身の原体験が基礎にあった。
 私が戦争と平和に関心を抱かずにいられない理由は、少年期の原体験にもとづいている。
 戦争が終わったとき中学2年生であった私にはもちろん戦場の体験はない。しかし戦争末期、私が住んでいた奈良県天理市(現在)には予科練(海軍航空予科練習生)が1万名近く駐屯して訓練を受けていた。予科練は他でもない特攻隊員の養成機関であった。
 ある日、兵舎となっていた信者詰所から、20歳前の練習生たちが隊列を組んで私の目の前に駆け足で近づいてきた。その若々しい半裸の肉体の群れに圧倒されながら、私は立ち止まって青年たちを眺めていた。その若者の集団が発散していたのは、まさに強烈な生命のエネルギーだった。躍動するいのちの美しさに感動した鮮烈な印象は、いまも私の脳裏に焼きついている。
 数カ月後に敗戦となった時、多くの若者たちのかけがえのない生命が戦場に散った悲劇に思い至り、街角で見た情景を思い浮かべて、若いいのちがどれほど戦争のために失われたことか、と彼らを戦場へ追いやった国家権力に強い憤りを感じたものだった。
 小学生の頃、天皇の称号ばかり暗記させられた歴史の時間は、どの授業より苦手であった。ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ、スジン、スイニン・・・そこには日本という国の民衆の姿はどこにもなく無視されていることを無意識のうちに感じていた。後に中学・高校でも、権力の交代や英雄の登場だけでつくられた歴史の授業には興味をもてなかった。
 たまに時代劇映画を観る機会があっても、例えば秀吉と家康の関ヶ原の合戦や大阪夏の陣で活躍する真田幸村よりも、喚声を挙げて突撃し、槍に突かれて倒れる足軽の死にざまに同情したくなり、その他大勢の家族の心情を思いやってしまう。(中略)
 かつての戦争体験の証言を取材し収集する活動にしても、職業軍人よりも軍隊の大多数を占める無名の兵士たちが対象であった。強制的に召集を受けて仕事や家庭を後にして戦場に駆り出された兵隊として生き残った人々や、内地にあって食糧難や空襲の下で苦難を強いられた女性の証言を、男女を問わず取材した。
 その過程で、満州に在留していた約60万の軍人や民間人がシベリアへ抑留され、数年にわたって過酷な強制労働させられた悲劇を知った。もちろん零下30℃にもなる厳寒の下で命を落とした兵士も多かった。しかも、現地に駐屯していた関東軍司令部は、在留邦人を見捨てて真っ先に日本へ逃げ帰っていた。その上ソ連が、満州にいる日本人をシベリアに連行して強制労働させた不条理な仕打ちを参謀本部が黙認していた事実も知った。シベリア帰国者の中には、国から棄てられたとして「棄民」訴訟を起こすグループもあった。まさに国家の正体を見た思いであった。最近も戦争証言サイト内で、「特集=シベリア抑留の苦難に耐えて帰国した12人の証言」を公開した。
 シベリアに限らず、南方戦線の島々に派遣された数十万将兵の大半は、食糧の補給もないまま山中をさまよった末に餓死した悲惨な事実もあった。
(リンク)戦争を語りつぐ証言集

 敗戦と同時にオトナたちは、一夜の間に必勝の信念を失った。そんなオトナに対する不信感を抱いていた私は、人間の心がいかに変わりやすくたよりないかをイヤというほど実感させられた。人間の言動を一切信じられなくなった私は、最後に信じ得るものが存在するとすれば神様しかないと思った。その後、青年期になって、当時の啓示書の中に真実の神に相違ない証拠を確かめることに没頭した。
 もし真実の「神」が実在するとすれば、先の見えない人間とは異なる次元から、すべてを見通しているに違いない。その預言こそが万能の神の実在証明となる。私は「啓示」の中にその証拠を確かめることに半生を費やした。
 一方、70歳を過ぎてから始めた戦争体験の証言を取材するボランティア活動は、6年目になって平和や福祉を目的とする各種財団から認められ、助成を受けることができた。毎日・朝日など地方版の記者からも取材を受け紹介記事が掲載されたこともある。幸い協力者を得て、今では95歳から70代まで130人以上の戦争証言をネットで公開し、延べアクセス数は20万人超(2012年7月現在)になっている。

最後に信じ得るもの
 ともあれ戦後の日本は、私自身の成長と並行して、経済の成長発展に向かってやみくもに走り出していた。戦争中の食糧難や物資不足を取り返そうとするかのように、所得倍増やGNPが唯一の国家目標となった。しかし、昨日までの全体主義が民主主義に一変したからといって、春になって衣替えするように日本人の心まで変わるはずはなかった。
 戦時中の言動と矛盾する正反対の思想を口にする大人たちを私は信じることができなかった。同じ教師が180度違った教育を始めたことも不信感を抱く原因となった。今さら勉強する気になれなかった私はスポーツに熱中した。
 人間の心とはいかに変わりやすいものか。最後に信じ得るものは何か。私の内心には、間違った信念によっていのちまで犠牲にして省みない人間への恐れと疑いの種が宿されていた。
 数多くのいのちが失われた戦争の時代に生まれたためか、私は生きることの意味にこだわり、世の中の風潮に背を向けて文学や哲学に興味をもった。哲学といっても観念的な思弁(しべん)を好んだのではない。いのちの価値を確かめたいという欲求がすべてであり、いのちと一体になる生き方を模索した。
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万年哲学者(Always Philosopher)

Author:万年哲学者(Always Philosopher)
 "万年哲学者" を自任する80代が半世紀かけて解明した"いのち" の真実を、若者たちに伝えるために発信するブログです。"真実" とは100年経っても価値を失わない発見や表現を意味しています。

 25年前の1991年には日本情報処理開発協会主催公募エッセイ「私たちのくらしと情報化」が最優秀賞を受賞したことがあります。(ブログ内で原文をリンク)情報を心の栄養とみて健全な知情意を育成するために必要な情報論を展開し、その後の急激な情報化の潮流に対して問題点を先取りした内容と自負しています。

 戦後70年にあたる2015年8月、ボランティアで続けてきたHP<戦争を語りつぐ証言集>(http://www.geocities.jo/shougen60/) が延べアクセス23万回となり毎日新聞でも紹介されました。戦争やテロほど生命を破壊する所業はありません。

 今後は "超人類" へ飛躍する未来をひらく「生命の哲学」に関連ある情報を提供したいと願っています。

 メール=shougen11910@yahoo.co.jp

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