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憲法とは何だろう

 毎年5月3日は憲法記念日に当たる。万能の学者として有名であった故・小室直樹氏の著書『痛快!憲法学』(集英社/2001)は「第一章 日本国憲法は死んでいる」から始まっている。小室先生はまさに博学多識、本物の学者として信頼できるのだが、なぜ憲法がすでに死んでいると断言できるのか。その理由について小室氏の説に耳を傾けよう。私自身、小室氏の憲法論を読んで「目からウロコ」の思いをした一人である。
 第一章のタイトルの横には、憲法の前文の一部が並べられている。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」(前文)

 さて、なぜ憲法がすでに死んでいると断言できるのか。その理由について小室直樹説に耳を傾けよう。小室先生はまさに博学多識、本物の学者として信頼できるからだ。私自身、小室氏の憲法論を読んで「目からウロコ」の思いをした一人なのだ。
「第二章 誰のために憲法はある」には、やはりタイトルの横に次の条文が掲げてある。「この憲法は、国の最高法規であって、その条文に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(第98条)
 とすれば、最高法規である憲法と、その他の法律とは、どう違うのか。著者に従って、法律とは何かを確認しなければ前へ進めない。
 法律とは、国家権力による強制的な命令であると言って間違いない。それでは誰に対する命令であるかと言えば、その対象者は法律によって異なっている。

 民法は国民全体に対する命令であるが、刑法は一般国民のための法律ではなく、かと言って違反しないように犯罪者を戒めるための法律でもない。つまり刑法は、犯罪に応じて定められた刑罰を正しく判決するための裁判官を対象とする法律ということになる。例えば、裁判官が殺人罪を犯した容疑者に1年以下の懲役を宣告したり、窃盗罪に死刑の判決をすれば刑法違反ということになる。
 したがって、刑法に違反する恐れがあるのは裁判官であって、犯罪者は刑法に基づいて裁かれる対象ではあっても、刑法違反者ではない。刑法は道徳的な規範を定めるために制定されたのではない。それ故に、国民全体に共通する規範や慣習を失いつつある日本では、法律以外に歯止めがなくなって、無差別犯罪が多発する原因の一つとなっている。この状況を社会学ではアノミーと呼ぶ。

 現在の家庭崩壊、学級崩壊、無差別殺人など、すべての無規範(アノミー)状態は、憲法が死んでいることに原因があり、しかも今の日本には民主主義も根づいていないという。
「まさに日本は滅びの渕に立たされていると言っても過言ではない」と著者は断言している。
 憲法は生き物だから、それが死んでしまった現状では、護憲も改憲も無意味となる。但し人間と違って、憲法は一旦死んでも、国民の自覚次第では再び生き返ることができる。そのためには、憲法は他の法律と根本的に違うことをはっきり知らなければならない。

 ここで、法律的に警察や検察の立場はどこにあるのかということが重要な問題になる。間違ってはならないのは、裁判官は司法権に属しているが、検察官は行政権、つまり政府・官僚の一員であり、両者の立場は全く違うということだ。検察は決して中立ではなく、政府側の立場になるのだ。
 ところが日本の新聞・テレビなどのマスコミは、昔も今も、政府権力の代理という立場にある検察を無条件に信頼し、検察官の調査や発表の正当性を無条件に認める傾向がある。最近も野党に対して不公平な検察の動きがあっても、マスコミは検察の発表を批判しようとしなかった。戦争中の新聞・ラジオは、軍部官僚の言いなりになっていた。一つ間違えば、今でもマスコミは権力の手先になってしまう危険があることを忘れてはならない。
 
 さて、憲法という法律は上記の民法や刑法とどう違うのだろうか。憲法は成文法ではなく慣習法であると定義づけられている。成文法と慣習法の違いは何かと問われても簡単に答えられないのだが、この違いが憲法の生き死にと深い関係があるという。憲法の条文が国民の間で慣習として定着していない限り、その憲法はただの「紙切れ」になってしまう、そこが成文法との違いになる。つまり、憲法を生かすも殺すも国民の自覚次第だということになる。
 
 前述の通り民法や刑法は、国民または裁判官や検察官を対象に定められたものであった。それらの法律は、国会の決議や最高裁で廃止の決定がなされない限り、いつまで経っても生きつづけている。
 ところが憲法だけは、国民を対象として書かれたものではない。では誰を対象に定められたのかと言えば、国家権力のすべてを監視し束縛するためにあるのが憲法だ、と著者は明言する。国家権力には、司法、行政、立法のすべてが含まれる。公務員つまり警察や官僚も権力の一部に他ならない。「したがって、憲法に違反することができるのは国家だけ」と著者は言う。「これが日本人には全く理解できていない」と。

 ここで、最初に掲げた憲法の前文を、もう一度読み返してみる必要がある。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」(前文)
 言論の自由をはじめ、人権や生存権などを保障する義務は、すべて政府権力に課せられている。自由とは、権力からの自由に他ならない。国家だけが、法律を定めて言論の自由を侵す危険性があるからだ。
 実際、国家には警察や自衛隊という、武装した暴力による強制力がある。法律一つで財産を丸ごと取り上げたり、否応なしに徴兵することもできる。これらは前の戦争中に、当然のごとく行われたところである。日本国民が目覚めるべきは、国家権力を「お上」と尊敬したり「善なる力」と錯覚しないことである、と小室氏は重ねて警告している。国家は恐ろしい怪物あるいは怪獣に似ていることを忘れてはならない、と。

 日本だけではなくアメリカ合衆国も、1776年独立宣言した当時から南北戦争を経て、凡そ40~50年前までは黒人差別があった。デモクラシーや人権尊重どころか、奴隷制度や原住民への仕打ちなど、120年前までは無法状態に等しく、実情はひどいものであった。
 ただ日本と違って、独立宣言や合衆国憲法の精神は死に絶えることなく、人種差別も次第に撤廃され、このたび初の黒人オバマ大統領を選出した。こうしたアメリカ国民の自覚と努力に敬意を表したい。

 さかのぼれば、日本にも大正デモクラシーと呼ばれた時代があった。もちろん 私の生まれる前だから 体験したわけではないが、 昭和11年(1936)に起こった2・26事件をきっかけとして軍部によるテロが横行し、民主主義が崩壊して軍部独裁に移行してゆくことになる。
 それ以前から第一次大戦後の世界的大恐慌があり、不況の波が押し寄せて、国民は失業と貧困に陥った。そうした100年近く前の様相が、現代と二重写しに見えてくる。ということは、このままでは政府権力やマスコミが、知らぬ間に憲法を無視して日本を危険な方向に引きずっていく可能性があるということだ。
 かつて大正デモクラシーが崩壊していった1930年代と現代の状況を重ね合わせて、憲法を生き返らせるために目覚める必要があるのだ。

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万年哲学者(Always Philosopher)

Author:万年哲学者(Always Philosopher)
 "万年哲学者" を自任する80代が半世紀かけて解明した"いのち" の真実を、若者たちに伝えるために発信するブログです。"真実" とは100年経っても価値を失わない発見や表現を意味しています。

 25年前の1991年には日本情報処理開発協会主催公募エッセイ「私たちのくらしと情報化」が最優秀賞を受賞したことがあります。(ブログ内で原文をリンク)情報を心の栄養とみて健全な知情意を育成するために必要な情報論を展開し、その後の急激な情報化の潮流に対して問題点を先取りした内容と自負しています。

 戦後70年にあたる2015年8月、ボランティアで続けてきたHP<戦争を語りつぐ証言集>(http://www.geocities.jo/shougen60/) が延べアクセス23万回となり毎日新聞でも紹介されました。戦争やテロほど生命を破壊する所業はありません。

 今後は "超人類" へ飛躍する未来をひらく「生命の哲学」に関連ある情報を提供したいと願っています。

 メール=shougen11910@yahoo.co.jp

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